​ここはどこだ。ここはココア共和国。きょうはここらでココアにしよう。

ココア共和国
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​NEWS

2021.09.23  

​秋亜綺羅の新詩集発行のお知らせ

秋亜綺羅詩集「十二歳の少年は十七歳になった」

先行発売中

 新型コロナの流行は、想像できないほどの長い期間となりました。

詩のイベントなども含めて「文化」は「不要不急」の域にあるのだと思い知らされたようで、口惜しい思いです。

 わたしにとっても、施設に入所していた義母と母とは面会もできないまま、永遠の別れをしました。

 経済的、精神的に苦しくなって自殺をした人、自殺を考えた人、死に至るかもしれない病を抱えながら治療ができずにいる人、そのために亡くなった人たちは、コロナに罹った人数よりもずっと多いのでしょう。

 さて、わたしの新しい詩集が久しぶりに出版されることになりました。

 こんな時代だからというわけでもありませんが、表紙カバー、表紙、見返しは世界でもっとも白いと言われる紙「ルミネッセンス」を、扉の紙にはもっとも黒いと言われる「NTラシャ漆黒」を指定させてもらいました。表紙とカバーには白の上に白インクを2度刷りしてイラストを載せました。扉は、黒の上に白インクの2度刷りをしています。

 肝心の詩については、あいかわらず稚拙なものばかりです。よろしければ開いていただければうれしいです。

(秋亜綺羅)

 

 あとがきより
 久しぶりに詩集という形にまとめてみた。
 意味の伝達やあいさつなどに言葉を求める日常に、詩は少ない。むしろ、言葉をまだ持たない赤ちゃんや、伝達が不能になった認知症の老人が発するオーラは、詩でいっぱいだ。人間は詩人として生まれ、言葉の意味を知ると同時に詩を忘れ、また詩人に戻って死ぬものかもしれない。
 ただ、言葉で言葉を探っていく詩人という職業は、さっきまで意味がなかったものを言葉で発見することだ。夕焼けに意味はないが、夕焼けを見て、切ない詩を感じる人は多いと思う。それを「夕焼けはきれいだった」と書いた瞬間に詩は消える。まして「夕焼けがわたしの心に/また会おうねと手紙をくれた」などと造型された言葉に出会うと逃げ出したくなる。言葉を化粧の道具にしないでほしいなと思う。
 確かにわたしも、言葉の意味を利用して詩を書いている。意味がゼロになると、それは言葉とは定義されなくなる。意味をすこしく壊しては、そこに詩を埋めてみる。今までに見たこともない夕焼けを感じてみたいからだ。
 巻頭の「十二歳の少年は十七歳になった」という作品は、東日本大震災から五年という時機に、新聞社の依頼で書いたものである。宮城県石巻市の高校を実際に取材して生まれた詩である。
 「朗読のための」という作品は、朗読会の前のマイクテストに即興で声を出したものだ。即興であるために、多少の矛盾した論理もあるけれど、このままにしておいたほうが臨場感があるような気がした。
 「馬鹿と天才は紙一重」という作品は、朗読のために書いたものである。実際に、まず「馬鹿」を朗読した。それはカセットテープに録ってあり、巻き戻して「馬鹿」を再生した上にかぶせて「天才」という詩を読んだ。真ん中あたりで「普遍はどうせかわらない」と「普
遍はどうせわからない」が重なり、「馬鹿と天才は紙一重」で完全に重なった。次にまた「普遍はどうせわからない」と「普遍はどうせかわらない」がぶつかって、ふたつの詩の意味が逆転していくのだった。
 わたしもいつのまにか、七十年も生きてしまった。紙一重で変わっていただろう岐路もたくさんあった。迷路もあった。今こうして、多くの人たちのおかげで詩を書いていられることを、感謝するしかない。
 詩ってなんだろうという名の旅は、死の寸前まで続くのだろう。